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令和三年初法座(表白)

令和三年初法座(表白)

2021(令和3)年1月5日、
午前10:30より、「令和三年 西正寺初法座」をおつとめしました。
13名の参詣のみなさんと一緒にお勤めをさせていただきました。

 徐々にお正月気分から、平常にもどっていくにあたって、お勤めの機会を持たせていただく思いで、お勤めしております。

 今回は特に、コロナの影響のなかで迎えた新年ということもあり、勤行にあたって読ませていただいた表白にもそのような思いを織り込んでのお勤めとなりました。

 感染対策や、被害を最小限にとどめる努力は惜しまず、行っていかなければなりません。しかし、そうありながらも「どうしようもない」部分は残ってしまう。懸命に、不断に努力し続けていても、なお感染してしまうかもしれない中で私たちは暮らしています。病にならないように、死なないように様々に配慮していても、やはり思い通りにならない場合が起こりうることも知っています。願いが叶うばかりではない、思い通りにならない、常に「生老病死」や無常の理の中で私たちは生きていかざるを得ません。

 お釈迦さまが、「生・老・病・死」の四苦の現実と、諸行無常の理を説かれ、親鸞聖人は、「すでにお釈迦さまによって諸行無常の理が説かれており、(多く人がなくなるような、悲しい事態も)決しておどろくべきことではない」と言われていました。それらのお言葉が示されることは、(私たちが直視できていなかったというだけで、実は)人生の真実のすがた、これまでの先人が生きてきた道筋は、絶えずそれらに直面し、向き合ってきた歴史だったということなのではないでしょうか。

 課題を矮小化するのではありません。また虚無主義や、放任主義にはしるのでもありません。
 避けがたい老・病・死が厳然としてあり、諸行無常の理のなかに生きていることを知ることは、「ちゃんと生きていくこと」「人生そのもののと真摯に向き合うこと」と同意であるのではないでしょうか。

 未曽有のパンデミックと言われる状況が続いています。しかし、その中にある「思い通りにいかない」、「当たり前と思えることが当たり前にできない」、あるいは様々な我慢を重ね、苦悩や迷いを重ねる姿は、先人がただ生きてきたその姿と重なるものがあるように思います。「人生を生きる」という実相が、露わになって突きつけられているということなのではないでしょうか。

 念仏の中に、自らの願いや思い通りになることを求めるのではなく、「思い通りにならない人生」をいかに生きるのか、先人たちが歩んだ道筋と、その生きられた姿を重ね合わせて、南無阿弥陀仏とお念仏申すご縁を大事にして、また一年、いや一日一日大切に過ごしてまいりたいと思います。

 合掌

令和三年 初法座    表白

敬って、大慈大悲の阿弥陀如来の尊前に申して曰さく、

本日、ここに仏前を荘厳し、参詣の門信徒とともに、
令和三年・西正寺初法座を勤修したてまつる。

新たな年、始まれり。
しかれども、
社会、昨年来の感染症の流行なお続き、
大きな困難のなかにあり。
我ら、苦しみ多き、
無辺の迷いの海の中にあり、
常に迷いと恐れを抱く。

しかれども、
釈尊、すでにさけがたき「生・老・病・死」の四苦あることを示し、
「諸行無常」の理(ことわり)を説けり。

宗祖親鸞聖人、
「生死無常のことわり、
くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、
おどろきおぼしめすべからず候ふ。」
と、また言わるる。

誠なるかな、
難思の弘誓は難度海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
苦しみ、迷い多きこの人生に、
南無阿弥陀仏の六字をもって確かな道筋を示されん。

願わくは、われら、この法会を機縁として、
心を弘誓の仏地に樹(た)て、
念(おもい)を難思の法海に流し、
あらためて、先人のみあとをたずね、
確かな、念仏の道、極楽往生の道の歩みをたまわらんことを

西正寺住職 釈了悟 
敬って白す

住職